昭和47年12月31日 朝の御理解
                        中村良一



御理解第18節
「此方のことを、神、神,と言うが、此方ばかりではない。ここに参っておる人々がみな、神の氏子じゃ。生神とは、ここに神が生まれるということで、此方がおかげのうけはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ。」

生神とは、ここに神が生まれるということでと。どういう様なあり方、どういう様な考え方にならせて頂いたら、ここに神が生まれるという様な心の状態が頂けるだろうかという事になるわけです。ね。一生懸命、お参りさえすればと言う事ではない。話を、ほんなら、聞くばっかりでもいけない。ね。そこに一つの、はっきりした焦点というものが必要である。ここに参っている人々が、みな、神の氏子じゃと。だから、みんなが、神の氏子としての自覚が、先ず、出来ること。その、神の氏子である自覚が出来る。そこから、何時の間にやら、石井清さんの場合じゃないですけれどもね。アイウエオと言う、あは、愛情と、愛ですね。いわゆる、神愛ではなくて、人間愛です。いは、意地、ね。うは、疑い。えは、えこひいき。おは、思い上がり。これだけじゃありません、まぁだ沢山、それこそ、カキクケコにもあろうとおもうですね、実際は。ね。けれどもです、そういう、例えば、神とは似ても似つかぬものが、ね。何時の間にか、身に付いてくるのですよ、人間は、誰しも。ね。本性は、神、本来は、神の氏子。ね。けれども、その本性の中に、何時の間にか、我情我欲が付いてくる。いうならば、垢が付いてくるという事になりましょうかね、人間の垢が。そして、神の性とは、似ても似つかないものになってきて、しかも、それをほっておくと、人間性を、神性、神様の性にしていくというだけじゃなくて、反対にです。人間性と言うものが無くなって、それこそ、鬼じゃろか、蛇じゃろかという様な、性根にすら、変わり果てていくのが普通です。ね。そこに、いわゆる、宗教、いわゆる、真の信心が要るのです。ね。
そこでその、人間、いわゆる人間が、誰しも持っておる、様々な、いわゆる、神様とは、異質のもの、変わった質のものをです。取り払うていくという事を、教祖は、信心は、日々の改まりが大事じゃと仰っておられる。ね。だから、これは、人間だから、これは人間だからと言うたら、もう、それまでの事なんだ。人間だけ、これくらいのことは当たり前だろうと思う。その、当たり前であるというところで、いわば、ほんなら、神に、いわば、進化していくということになってこないのです。いわゆる、わが心から、ね。神が生まれるという、真に、有難いといったような心がです。生まれてこないのです、それでは。ね。勿論、その心は、まぁ、言うなら、自分で自分の心が拝みたいほどしの心の事ですから、ね。わが心に神が生まれるというのは、そういう事なのですから。自分の心に合掌せれれる様な心。そういう、例えば、心の状態にならせて頂くことが、楽しみになっていくというのが信心であってね。信心というのは、ただ、お頼みをするとか、お願いをする、ね。お伺いをするというのが、信心という様なことであっては、それは教祖の仰る、ね。生神への道という様な信心ではないことになります。神様ちは、ただ、頼むことが、神様だという様なことじゃない。信心とは、わが心が、神に向こうていくのを信心と言うのじゃと言う信心にならなければならない。
そこで、神に向こうていくという事は、どういう事かと言うと、人間の持っておる、いうなら、神とは、似ても似つかぬ心と言うものをです。ね。見極めさせて貰うて、それを改まっていくという事。ね。いうならば、神の機感に叶うた心の状態を作っていくということ。ね。そのなかの、私は、一番、間違いのない生き方。わが心が、神に向こうていくという事に、一番、間違いの無い生き方。それは、あの、甘木の初代が教えておられます様に、われよしと思う心をあだとして、夜毎、日毎に、戦いていけといったような御教えがあります。ね。安武先生ご自身が、そこに、焦点を置いてのご信心のご修行であったという事になります。不平不足は言わん、いや、不平不足は思わんと言うところまで、思わんですむというところまで、信心を高めてお出でられる。不平不足なんか、言える段じゃない。ね。いや、思わんで済むというところに、私は、生神を見ますね。ね。不平不足を言わんで済むという心の状態こそです。私は、生神の、そこに神が生まれるということであってというのは、ね。普通から言うならば、ね。血の涙の出るように腹が立つ。ね。といったような場合であってもです。それを、全然、不平にも不足にも思わんで済むという心です。ね。少しでも、不平が起きたら、不足が起きたら、吾よしと思うておる心に間違いないのですから、その、吾よしと思う、その心を、敵の様に思うて、それを討ち取っていかなければならない。ね。それが信心なんだ。しかも、そうした心の状態をです。いわゆる、改まった心の状態をです。いよいよそれに、磨きを掛けていくというのが、信心とは、本心の玉を磨くものだということになってくる。ね。磨くという事は、そこからもう、限りがないことですね。
どげんして磨くやろか、ここは。どげんして磨くとですかと、磨きようが分からんという人があります。ね。いわゆる、神心を使うて、ね。社会に奉仕をするとか、ね。人のため、世のために、ね、その神心を使うて奉仕する。ね。その神心をもって、人のために祈る。ね。磨くという事は、私は、そんなことだと思うですね。改まると、いうなら、垢を落としたら、その、落としたその、垢が落ちたというだけではなくて、それに光を放つような、ね。光を放つようなおかげを頂くためにはです。私は、まぁ、それをいうならば、神願成就と、神様の願いが成就することのために、そういう心を持って奉仕をする。ね。そういう心をもって、人に話をしていく。そういう心をもって、ね。奉仕をする。いわゆる、そういう心をもって、例えば、人にお話をしていくと。そして、真の信心をさせるのが、神へのお礼ぞとこう。しかもそれが、神になるのぞと、はっきり教えておられる。それが、いよいよ、ね。改まった心を磨いていくという事は、そういう事。いわゆる、神としての光を放つようになる。
まぁ、私共の修行が、いよいよ、まぁ、たけなわという時分の、私の信心を、今から、思うて見たり、また、人が、それを見、感じられた時代のことを思うてみるとです。もう、例えていうなら、身欲と言うか、自分のためといったようなものは、さらさら無かったことは、もう、改まりに改まるということに、極めておったからじゃないかとと思うですね。そら、難儀の、一番、激しい時ですから。けれども、もう、そのことは、神様にゆだね任せてあった。ね。もう、ちょっと突つきゃ、ありがた涙がこぼれる様な心の状態であった。しかも、そういう心の状態で、それこそ、西に東に、ね。有難い、私が、有難いと思うておる話を、困っておるという人がありゃ、難儀しておられるとお話を聞かば、そこへ、もうどんなに遠かっても、てくてくと歩いて、お話をして回ったと言うのです。ははぁ、あの時分に、神になる修行しておったなと思うのです。ね。
もう本当に、破れた鞄を提げて、破れた靴を履いて、破れた服を着て。そして、あちらこちらへ、まぁ、さまよう訳ではないですよね。もう、はっきりとした、あの、人が助かることのために、一生懸命、そのことだけに専念しておる。ね。その事だけに、教会の御用に打ち込んでおる。本当にですね、全然、知らん者でも、私は、皆さんにも、何時も聞いて頂くですけれども。私が、福岡から、善導寺に帰ってくる。大木から善導寺の町に帰ってくる。大木の電車で帰ってきますからね、バスを使いませんから。ちょうどあの、善導寺のご本山の、ちょうど前辺りにですね。小さい殖産会社があった。私の今、かわらの池尻です、妹が、しばらくそこに、事務員に出ておった。私が、例の、そのスタイルで、そこの前を、ま、一週間に、一遍か二遍ぐらい、必ず通るわけです。教会に行くわけですから。大木のほうからこう、新生橋を渡っていくんです。そしたら、そこの社長さんが。ちょっと、池尻さん、池尻さん、あん、前ば何時でん通って行きなさる人があるがね。あの人は、とても、ただ事じゃなかばのと言われた。はぁ、あれは、私の兄でございますと。それこそ、びっくりされた。ね。いうならば、破れ洋服着て、破れた鞄を提げて、破れた靴を履いて、どこのルンペンじゃろうかと、いうなら、けれども、あの人は、ただ事じゃなかばのと。私は、そういう姿の中に、尊いものが、何かがあった。やはり、光を放っておった。ね。私は、それは、そういう実証のある人達のことを言っておる。私は、その時分のことを自慢すると言う意味じゃありませんけれども。今日の御理解頂いてです。本当に、もう、それからこちらであっても、改まることはもう、限りはありません。けれどももう、自分としては、改めるだけの改まりをしておる。ね。それが、垢が落ちることである。それを、いよいよ、それに磨きをかけていくという事はです。その心で、ね。神願成就のことのために奉仕をするということなんだ。いうなら、世のため、人のために、人が助かることのために奉仕をするということなんだ。
私は、それと同じ様な事を、ね。正義さんが一遍、そう言うた事があった。ね。大木橋のこちらに、善導寺と大木のほうへ、両方分かれ道がある。近道と遠道と。そのちょうど、二股になっておる、あの、道のところで、その岐路に立って、御祈念をしておる。右の道を通ったが良いか、左の道を通ったが良いか、神様にご真意を伺うてから、道でも歩くという時代ですから。たまたま、その、大木橋を渡って、私の後ろから、正義さんが来よった。けれども、声かけることも出来なかったと。それこそ、後光がさしておる思いだったと言っております。私は、付き合いに、善導寺の、元の役場の前に、大坪と言う食料品店がありました。あの時分の事を、あちらの叔母さんが、もう、本当に、善導寺の町を、あーたが通って行きよる時に、本当に後光のさしよるごたったと言います。ね。ですからね、私は、やっぱりあの、本当に、後光と言うものはあると思うです。光を放つことがあると思うです。ね。
仏様やら、キリスト様やらの絵やらを見ると、こう、後光がさしとるでしょうが、絵に。あれは、絵じゃない、本当なんだ。私はそう思う。ね。ほんんら、それはどういうことかと言うと、私を滅してしまっておる。私を、虚しゅうしてしまっておる。自分のためじゃない。しかも、改まりに改まった心で、なおかつ、ね。世のため人のための事を、思い念じておる。神願成就のことのために奉仕をしておる。そういう姿に、私は、あの、後光のさすようなというものが生まれてくるんだと思う。ね。皆さんが、そげんまで、ならんでよかと言わんでです。今の合楽ではね、それがね、もう平気に出来れる道を説かれてあるのです。ここ、二十数年間説いてきた。ほんなら、成り行きを、本当に尊ばせていただく。御事柄として、事の全てを大事にしていく、ね。勿論、改まることに、磨くことに精進しておらなければ、有難く頂けんのですけれど、ね。勿論、そこにあります。けれども、それを、もう、こういう道が、生神には、こういう道があると、はっきりその道を明示されておる。しかも、最近、言われておる、五つの願いといったようなものが、ね。いよいよ、願いとして、ね。願われていく時にです。人間の切実な願いを、神願成就のことのために繋がっておる。どうぞ、体の丈夫を頂かせてください。家庭円満のおかげを頂かせてください。いよいよ、子孫繁盛、家繁盛のおかげを頂かせてください。をもって、真の御用にお使いください。をもって、神願成就のことのための御用をさせてくださいと言うのですから。ね。この、三つの願いのところにだけ力。
先日、波多野さんでしたね、二三日前、何か、そんな御理解を頂きましたね。どういうわけに、この願いが、真の信心かという事を説きました時にです、ね。そら、五つの願いと言われるけど、三つの願いのとこだけを、一生懸命、実感を持って願う。どうぞ、健康を大事に。どうぞ、家庭が円満になりますように、より円満になりますように。より、子孫繁盛、家繁盛のおかげを頂きますようには、実感をもって願いよりましたけれども、今日の御理解を頂いて、改めてです、なるほど、これだったら、もう、我情我欲の信心にしかならんて、幾ら、改まったところでです。幾ら人を責めないと言うてもです。如何に、大酒大食をしないと言うてもです。如何に、始末倹約をすると言うてもです。それは、我情我欲のための信心にしかならないのだ。ね。それをもって、信実の御用が出来ますことのために、ね。神願成就のことのための奉仕が出来ますことのために、この三つの願いを成就させていただかなければならんと言う信心にならなければならない。この信心が、神に向かう信心、真の信心です。いよいよ、そういう信心によって、磨いていくことになるのです。ね。人を責めませんという事は、いうなら、不平不足を言いませんという事ですけれども、ね。私共の心の中には、やはり、責める心、いうなら、不平不足の心も起こるけれども、その、起こる心をです。起こった時には、ね。それを、敵のように思うて、吾よしと思う心を仇として、夜毎、日毎に戦いて行くという信心。
私は、そういう、生神への道といったようなものを、端的にです、しかも、いうなら、私も、それを辿らせていただきながら、皆さんと一緒に、その道を辿ろうと言っておるのですから、そして、合楽では、非常にみやすいと思うのです、その気になったら。ね。はっきりそこに、道が、どげな信心すら、真の信心が分かるじゃろか、なんていっておる人が、いっぱいなんですよ。信心頂いておっても。けれども、その時、その時でです、ね。真の信心とはという方向をはっきり示してくださる。しかもその、行じていかなければならないことは、楽しゅう、その気になりゃ、行じられる様な御教え、いうなら、ばっかりなのだ。ね。そこに本当に、心掛けさせていただいときゃ、誰でも出来るという、言うなら、信心を、楽しく、有り難くさせて頂きながら、生神への道を、ね。もう、一筋に進ませていただくという生き方。ね。この生き方でいくならば、こら、生神様になれるぞと、確信が持てれるような信心になってくるときです。そこには、いよいよ、確信しなければ おられないほどしのおかげが、それに伴うて来るから、また、いよいよ、楽しいのですよ、金光様のご信心は。
昨日、私、あの、週刊雑誌を高柴さんが持ってきてくださった。先生、この中に、金光様の事が出ておる。と言うてから、持ってきてくださった。いわゆる、まぁ、色んな新興宗教の記事が載っているわけです。その中に、金光教も、まぁ、新興宗教とは思われませんけれども、まぁそれに載っておる。金光様のことが、色々、現、教祖様のことが載っておりましたが。その、ある新興宗教の、まぁ、霊徳、人が、沢山助かると言うのですから、やっぱ、人が助かるほどしのところですから。その教えておられる、この生き方で、自分は行っておると言う、その方の歌が出てました。勿論、これは、一つの霊感から生まれた歌としか思われません。そういうように、こう言う歌があるんです。よしあしは、東にない、西に無いと。よしあしはね、東にも無からなければ、西にも無いち言う。ね。来た道尋ね、南にあるとあります。ね。北と南に引っ掛けてあるです。来た道尋ね、自分が歩いてきた道と言うことなんです。それを、北という字で書いてある。来た道。これは、よしあしと言うのですから、悪い事でも、良いことでもです、ね。あの人は、果報者だというけれども、果報者にならなければならないような道を歩いてきてるんです、この人は。はぁ、あの人は、難儀なこつじゃろうと言うのは、難儀な事にならないような道を歩いて来てるんです。自分の来た道なんです、それは。ね。よしあしと言うものは、ね。もう、そこら、ここらにあるち言うことじゃ無いて。東にも無ければ西にも無い。ね。来た道を尋ねてみれて。来た道、ね。来た道尋ね、南にある。みなとは、みんな、自分の身にあるという意味なんです。南にあるというのは。ね。こじつけでも、このくらい見事にこじつけてあるならば、なるほどと、合点が行く気がしますね。ね。なるほど、人間の知恵から出た歌じゃないなと思いますね。ね。この生き方でです。沢山な人が助かっておるということ。ね。自分を見、自分を見極めろ。不平不足の段じゃない、ね。そういう生き方からです、私は、吾とわが心が拝めれる様な状態が生まれてくる。ね。それを、生神と言うのじゃと、教祖は教えておられるのです。生神とは、神がここに生まれると。そういう心の使い方が出来る時にです。心の中に湧いてくる、有り難いという心、ね。そういう心が、ね。段々、沢山になってくるということ、心の中に。
生神とは、ここに神が生まれるということであるという信心を、いよいよ、極めていくということ。それには、本気でです。今の合楽で言われる、五つの願いを、本気でさせていただいたらですね。もう、させていただいたら、その後に生まれてくるのが、生神の心です。ね。いわゆる、波多野さんじゃないけれども、三つのところは、一生懸命に願う。一二三のところだけは。どうぞ、繁盛しますように。どうぞ、健康でありますように。どうぞ、家庭が、いよいよ、円満でありますようにと言うところを、ね。この事を、一生懸命に、祈ると同時に、あとの二つのところをです、ね。本当に、そういうお役に立ちたい、立ちたいの一念が、この祈念になっておるという時になってくるなら、神様が、感動ましまさんはずは、絶対、無いのですから。ですから、本当いうと、その祈りと言うものはね。神様の感動が、こちらへ返ってくるところまで、繰り返し、一心に、無心に、または、ね。または、そういう有り難い心で祈らなければならないかと言うことが分かります。だからまた、おかげも頂くわけなんです。ね。お役に立ちたいから、御神願成就のことのために、奉仕させていただくほどしのおかげを頂きたいから、健康も下さい。財産も下さい。なおさら、家庭が円満でありますようにという事になってこないとです。真の信心という事にもなりませんけれども。それが、私は、生神へなるところの道だという風に、今日は、聞いていただきましたですね。どうぞ。